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第1回 東日本お話伺いメモ 被災者の声 [2011年東日本お話伺いメモ]

日時:2011年5月21日(土)14:45~16:30
避難所:石巻市立湊小学校

・70代男性、自宅1階水につかり全壊状態。私の家はこの小学校の道路を渡ったところです。強くて長いこんな地震は、はじめての経験でした。2階の瓦が崩れ落ち、1階は浸水した。家のまわりを見て、すごいことになっているのがわかった。津波は来ると思ったが1m位だと思っていた。外階段を上ったところに避難しようとゆっくりしてたら、幼稚園の先生から湊小学校に行ってくれと言われた。車がのろのろ運転しており、その間をぬってこの小学校の体育館の南側で町内の人と会った。
下に降りて体育館の前で避難する人を見ていたら、黒い泥水が来た。「3階に上がって」という声。廊下にいて窓の外で車がどんどん流れている。人も流れている。3階の窓から見ると、窓の外の家にしがみついている高校生がおり、流されようとしている。それをロープで引っぱって、引き上げて助けた。4m位の波が来た。
 最初の晩、寒かったが1部屋に116人、人数が多く体温だけで、それが暖房になった。小学校の小さな椅子に朝まで座っていた。ここから見える総合福祉会館のその向こうにもう一本道路があるが、そこの電柱は全部が倒れた。この小学校の1階は全部泥で埋まった。車14~15台が流された。体育館のバスケットゴールと同じ高さまで水が来た。あそこに見えるお寺の住職が逃げおくれ、津波に巻き込まれて亡くなりました。その隣りのお寺のお墓に、車がたくさん流されたままになっています。これを見ると当時の被害のすごさがわかると思います。
この小学校は1~2年前に耐震構造に建て替えたところでした。誰もこんな大きな津波が来るとは思ってなかった。だから、逃げ遅れた。川のそばから自宅の2階に避難した人の話ですが、この小学校までがれきをのり越えて、2時間もかかったと言ってました。仮設の抽選はしていない。家を修理して、なんとか暮らしたいと思っている。息子はこの近くだが、一緒に住もうと言ってくれている。この小学校では、仮設の申し込みをした人が230人位いるが、2~3人しか当選していない。

・70代女性、自宅は津波で流されました。川の近くに自宅があり、家は流されました。私はすぐ逃げた。5分遅れたら津波に飲み込まれていた。
着の身着のまま逃げたので、通帳も何もありません。1度近くの小学校に避難したが、地震でシャッターが閉まっていて、この湊小学校に来ました。「2階3階に上がってくれ」と案内があった。演奏会の楽器を取りに家へ戻って亡くなった人がいます。実家、弟の家、私の家は全壊ですが身内で亡くなった人はいません。地震の後、言語障害になりしゃべれなくなりました。ともかく寒かった。5日間飲まず食わずでした。
 3日目に飲んだ、おちょこ1杯の水がどんなにおいしかったか。でも2度と経験はしたくない。こちらに来て7kg痩せませた。私はずっと一人暮らしです。仮設の抽選ははずれました。よく何がほしいですかと聞かれますが、お金の他はお水、ティッシュペーパー、ウェットティッシュです。妹、弟たちのことが心配。仙台の妹がここに来たが、がれきがすごく石巻市に入れなかった。14日後に来れたとき「ウェットティッシュ持ってない?」と思わず聞いてしまいました。この土地に愛着があるので仮設住宅はこの周辺にしてほしい。

・70,60,60代男性、津波、2Fまで水につかる。部屋の住民19人くらい、仮設に応募するが、誰も当たらない。部屋の中では会話を絶やさないようにしている。94歳の母親がいて、すぐに津波から逃げられず、2Fの足元まで水につかった。自分が流されないように手すりにつかまった。津波が8回きて、北上川の橋の上で車が流された。地震で火事があり、集まった消防車5~6台が津波で流された。川の近くに(避難用の)高台が欲しい。海寄りには住めないが、石巻を離れたくはない。まずは仮設住宅に入って、それから今後の復興について考えたい。

・80代男性、助かった人はそれでいいのではと、がまんは当然であるとの考えを盛んに述べていた(風呂も入れるようになったし)。仕事がなくなってしまった人が多い。それが最大の問題点。今後どうやって生計を立てて行くか。特に若い人。260人位が現在避難している。この数は次第に減少してきた。団体生活をしていると気をつかう。町内で18人が亡くなった。当日は、この教室に100名位が避難。すし詰め状態だった。石巻の事をわからない報道陣が多い。
 (感想)当初は、何も困っている事はない、聞いてもらうこともないという雰囲気であったが、次第に話し始め津波の状況(流された町内の人等)を説明してくれる迄に至った。やはり、本当は話をしたいこと、聞いてほしいことが沢山あるのではないかと思った。最後は笑いがこぼれるまでになった。

・80代女性、1階は住めない。2階は大丈夫。足が痛く外出は思うように出来ず、窓の外から景色を見るのが気分転換。早くおちついて暮らしたい。近くに息子さんが住んでいる。定期的に病院で検診している。

・70代女性、津波で流失。地震のゆれを感じてから20分後に津波が来て、家が流された。家からは何も取れなかった。津波を見ていたら、屋根が流れていた。息子も仕事中に被災、津波にあったが3回目の夜にここを訪ねてきてくれて会えた。裏の墓は自衛隊が4~5回かけて泥をかいた。今は部屋で雑魚寝している。仮設に入りたい。石巻からは離れられない。

・60代女性、津波で2Fヒザまで水に浸かる。地震の時、自宅兼工場に戻って従業員を待っていたら逃げ遅れた。35人の従業員のうち10人が亡くなった。ネコを7匹飼っていたが、うち6匹が亡くなった。残った1匹は地震のショックで自分の声に反応しなくなり、今病院に入院している。工場の車全部が流された。夫は今回、何億円もの設備を失った。こんなにひどい津波が来るとは思ってもみなかった。私の家は、形はあるがすべて津波でだめになった。今は、この学校に避難させてもらってるだけでもありがたい。仮設住宅の申込みは早くからしているが、この部屋では誰も当っていない。

以上

第529回 神戸お話伺いメモ 2011/5/14 [2011年神戸お話伺いメモ]

・20代男性,祖母(70代)と2人暮らし。祖母は元気で出かけているとのことであった。快くお話し伺いに応じてくれたが,阪神淡路大震災の時は幼かったため,何も覚えていない。

・80代女性。腰が痛くて立っていられないとのことで,「お大事に」と最後に言って,短時間でのお話し伺いに。

・70代女性。中央区で全壊。家から出てきたところに声をかけたが,病院へ注射に行くとのことで,エレベーターに乗るまで短時間のお話し伺いに。

第530回 阪神・淡路大震災 傾聴ボランティアの募集 2011/5/28 [神戸活動案内]

週末ボランティアは、阪神・淡路の被災者がこの度の東日本の地震を自らの体験と合わせてどのような思いを持っているかを直接聴く中で、その心を共有して行きたいと思います。

第530回、阪神・淡路大震災 傾聴ボランティアの募集

日時:2011年5月28日(土)午後1時〜6時

集合場所、時間:三宮駅から南東徒歩5分「神戸市勤労会館」
・午後1時に和室1にご集合下さい。

訪問先:神戸市中央区、HAT神戸・脇の浜住宅
ご連絡は電話078-734-6544、携帯090-8121-9709週末ボランティア代表:東條健司まで

前回の訪問は新人1名を含む参加者10名でした。

第0回 東日本お話伺いメモ 大槌・釜石(花巻)の声 2011/04/19-20 [2011年東日本お話伺いメモ]

東日本大震災 大槌・釜石(花巻) の声  29人
(週末ボランティアでは、この4月19日から20日にかけて、被災地大槌の被災者と、釜石からの集団避難者・花巻の台温泉の方々からお話を伺って参りました。どうか皆さん、この方々に手紙を出して、心の交流を深めてください。グループA~Fの(  )の中の住所に、自由に手紙を出してください。いずれも避難所は流動的ですので、早い方が良いでしょう。被災現地はあなたの便りを待っています。週ボラ代表、東條健司、神戸市須磨区飛松町2-3-18-505。078-734-6544、090-8121-9709。)

2011年4月19日グループA(岩手県上閉伊郡大槌町 安渡(あんど)小学校 2階階段前教室)
・女性(70代)
まず言いたいこと。仮設住宅が一番ののぞみ。どこでもいいから、早く作って欲しい。手足を伸ばして休める場所が欲しい。今は30cm×60cmの畳、4枚を並べてそこが1人のスペース。足りない物はない。三食しっかり頂いている。それ以上は望まない。これまでの人生、地域への思い。家族に犠牲者はいない。息子との2人ぐらし。息子は釜石で働いている。夫は魚保管用の冷蔵庫で働いてきた。15年前になくなった。生まれた時から大槌で暮らしてきた。ここは全てがいい。隣同士が近いし、声をかけあえる。朝起きれば洗濯物を干しながら話しをする。お隣同士が本当に仲良し。都会とは全然違う。大槌は漁業の町。ここでとれるさけはうまい。風が冷たいからかな。
津波について。家は海の近く。チリ地震では1階まで水が来た。今回も2階は残ると思っていた。でも、全部もっていかれた。津波が来たのは揺れてから15分だったか30分ぐらいあったか。横から見て山のような高さだった。2階に残った人や、忘れ物をとりにいった人は流された。いつかは津波が来ると思っていたけど、こんなに大きなものが来るとは思わなかった。市は壊滅状態。漁業も後継者がいない。今から直してやっても、借金が残るだけ。 自分は息子と一緒に、揺れた後すぐに車で安渡小に避難した。学校の前の鉄橋の所まで波が来た。津波は、学校から見た。流れている人も見た。
大槌でも火が出たところがあったが、安渡は火がでなかった。でも、ここにいても、ガスの爆発するような音が、パンパン鳴っていた。自衛隊には大変お世話になった。
震災の日から食べるものはあった。学校に備蓄してある米があったから。
震災当初は20日間、息子と校庭で、車の中で暮らした。それから避難所に来た。
今後について。今は、泣いたり笑ったりの繰り返し。まさかこんなことがと思うと涙が出てくるが、友達と話していれば笑顔になる。その繰り返し。元居た場所に戻る気にはならない。これからのことを考えると、高台に住まないと。
早く仮設住宅に移りたい。

・女性(80代)
今の希望。早く仮設が出来て欲しい。津波と亡くした息子について。こんなに大きな津波が来ると思わなかった。早く逃げろと息子に言われたので逃げた。でも息子は津波に流されて亡くなった。52歳だった。自分は着の身着のまま、何ももたずに逃げた。孫も一緒に逃げたが、孫は無事だった。高校生。今も、この教室に一緒にいる。
安渡の丁目に住んでいた。海からは2.3分、避難所までは1分のところ。近所でもたくさんの人が亡くなった。息子は見つかっただけまし。まだ行方不明の人がたくさんいる。早く見つかって欲しい。
息子は東京で働いていたが、3年前にけがをして、それでこっちに戻ってきた。実は3月18日から、また東京に行って働く予定だった。地震がもっと遅く起こっていればよかった。その3月18日に息子の遺体が見つかった。実は、夫の月命日でもあった。
ここでの暮らし。ここでは、隣同士仲良し。最初は体育館に入ったが、一度釜石の親戚の家に行った。でも地元がいいから、また大槌に戻ってきた。
元気にしゃべっていられるのも、皆さんがやさしくしてくれるから。色々な支援もしていただき、本当にありがたく思っている。でも、本当は泣きたくなる。息子のことを思い出すと涙が出てくる。だからこうして話すのもつらい。

・女性(60代)
津波について。自分はその時間働いていた。店長に逃げろと言われて急いで家に帰った。ガス栓を締めてトイレに入ったら、トイレもゆれて怖い。毛布を2枚だけもって車で避難所に逃げた。最初は「城山」の避難所に逃げた。家は流されてしまった。
夫は別に逃げて2日間行方不明になった。息子と2人で探したら別の避難所にいた。
本人は記憶喪失状態で、その間のことは覚えていないという。
行方不明の妹を捜す日々。この避難所は自宅から離れているが、移ってきた。その理由は妹が行方不明になったから。実家が安渡にあり、全て流された。妹の車はすぐ近くで見つかったが、本人はいまだに見つからない。1日に2回、遺体安置所に通って、写真を確認している。それ以外にも、自衛隊の人から、年格好の似た人が見つかったら携帯に連絡が入るようになっている。気を使ってくれて、ありがたい。一日も早く妹を見つけたい。これが今の一番の希望。
今後のこと。家が欲しい。帰る家がないのはつらい。元の場所にもどりたい。高台に、という気持ちもあるが、みんなが住める訳じゃないし。それなら、元の場所でいい。毎日変わりないと思っていた日常だが、普通に家をでて働いて帰ってくる、そんな平凡な生活がとてもいいことだと強く思う。支援物資は十分だが、枕があれば。今はタオルを丸めているが、ぐっすり眠りにくい。

以上

2011年4月19日グループB(岩手県上閉伊郡大槌町 安渡小学校 2階階段前教室)
・女性(40代①)
父親が亡くなりました。北上町で火葬したが11日もかかった。油がないとかでどこもいっぱい。私は盛岡市の搬送会社に頼んで----。
3/11職場に居て地震速報を聞いていたら、揺れが大きく外へ出た。直後に町内放送「大津波がきた」と一回だけ放送。子供達を迎えに車をとばした。家は流れて跡形もない。捜しても自分達のものはなく、瓦礫(がれき)ばかり。3/9避難警報出ていたので、このときは家へ避難グッズを取りに帰ったが。実家の父に「早く逃げてよ」と声をかけたが、線路ごともっていかれた。父は亡くなり、線路はなく、家も潰れました。せっかく避難したが、それ以上の大津波だったので、犠牲たくさん出てしまった。
大槌町安渡も火が出た。町の中心も火が出て、空襲のようだった。焼けてる死体を見ないように言われた人も多い。焼死体を見るのはつらいです。毎朝8:00朝礼、前日の活動報告で、毎日遺体の数の報告ありますが、聞くのがつらい。
小学校の子供、明日から学校です。ここは使用できないので、となりの吉里吉里小学校になります。バスないので、明日の始業式だけ参加します。
水門の近くなので全部もっていかれ、がれきすらない。ピアノ重いがそれもなかった。

流された車は購入してまだ1年。お父さん仕事で車買わないといけないが-----。
住民票とれるようになったが、となり町より遅れている。昨日みたいに天気が良いと「こんな日には何回も洗濯してた」と思いだす。この教室に小学生の子供達がいなくて、お年寄りだけだと雰囲気暗くなる。子供がいるので明るくなれます。がれきが山積みだったが、道もついてよくなった方です。安心して眠れる環境に戻ってほしい。

・女性(40代②)
コンタクトレンズの購入で14:23のバスに乗っていて、地震に遭遇。バス途中で降りて、歩いて安渡小学校まで戻る。大津波警報で新港町まで帰れない。海面の波を巻き上げて第二波で電柱が倒れ、上の国道まで上がってきた。津波の水の恐ろしいこと、自宅は流された。この学校に泊まったが、寒くて怖かった。
 兄は亡くなった。身元確認できたが溺死、短時間での水死だった。町長も亡くなり、役場の機能はなく、身内の火葬は自分達でさがすようにというので、私は八幡の方でやった。
まさかこんな大津波がくるとは思ってなかった。写真を見るもの無惨。私が生きている間に、こんなのが来るとは思ってもない。まだ仮設住宅は建っていない。地震大きかったが、津波はもっと怖い。2階にいれば大丈夫と思っていた兄は亡くなった。避難しようと言ったが、「俺は大丈夫」と言ってた。ホットコーヒーに砂糖を入れて飲むのが好きだった。兄が見つかるまで、コーヒーは飲めなかった。
私の子供は高校生だが、大槌高校に避難している200人~300人の被災者は自衛隊の誘導で別の避難所へ行った。明日は大槌高校の入学式です。私はハローワークで仕事を捜している最中でした。思いだしたくないが、なにもかも無くなった。写真1枚でも見つかれば。釜石、陸前高田テレビに映るが、ここは出ない。しかし被害が大きいところです。町長は役場に寄って課長と一緒に出てきて、職員と共に上にあがったが、助かった人と死んだ人に分かれた。町長は逃げ遅れ、名札があったので身元確認できた。山田町など町長がいるところは、がれき撤去なども早い。ここは機能していないので遅い。自衛隊の人は風呂を用意してくれ感謝しているが、何時いなくなるかと心配だ。
ここはプライバシーもなく体調こわす人も多いです。地震から津波まで15分、こんな大津波がくるとは-----。海面の水を巻き上げて黒けむりの感じでした。ついこのあいだまで生きていた人が死んだと思うと悲しくなる。食料買うにも店がない。生活をどうしていけばいいのか------。ここが一番高いです。すぐ後ろが国道です。携帯で大槌の航空写真を見たが、何も残ってなかった。アルバム、写真見つからない。水門壊れて跡形もない。
早く仮設住宅の申し込みの段階にしてほしい。地震が夜でなくてよかった。玄関の引き戸のレールだけ残った。

・男性(60代)
私と女房、息子の3人はバラバラに、3台の車で逃げた。3人は無事だったが、女房の妹はまだ見つかっていない。私は栄町です。ブロックで家の跡はわかります。仮設住宅作っても、ここが最後になります。家のセメントの土台だけ残った。
私は船乗りです。阪神淡路大震災のとき、神戸におりました。下で働いて、上で暮らす。

アメリカなんかそうですよね。津波てんでんこ です。

・女性(30代)
仕事で釜石にいた。コインパーキングから車出せなくて、高台(たかだい)に逃げた。体育館で2時間だけ寝た。大槌の情報が釜石に入らないので、早く帰りたかった。
次の日、12:30~16:00歩いて帰った。トンネル真っ暗で怖かった。壁にさわりながら帰った。車だと25分くらい。結局車は流された。小学生の子供がいる。「避難している」の携帯入ったが、本当はそうでなかった。まだ避難中だったよう。
釜石の津波は急だった。家も流されてきたので、「もうここまでか!といった感じ。生きていれば子供会えると思って、必死だった。山の中でもいくしかないと思った。いくつかのトンネルがあるが、真っ暗だったので怖かった。携帯はトンネルの外で切れた。見通しはないです。壊滅状態です。小学校統合の話がある。この学校がなければ半分以上は死んでいた。釜石でこの安渡小学校はなくなっていると思っていた。
各学年ごとに一つの教室でみんなが勉強できるように、早く戻ってほしい。今堤防がないので、地震がまた来たら怖い。
以上

2011年4月19日グループC(岩手県上閉伊郡大槌町 安渡小学校 体育館)3名
・(スーパー店長)
仕事で釜石にいた。地震のとき、スーパーで働いていた。セールスと話をしていた。揺れ
だんだん大きくなって、店内放送で「大きい地震なので表の駐車場に避難してください」

と言った。その後いきなり停電、いきなり窓ガラス割れた。海のそばなので、水平線に白波見えた。店長だったのでレジのお金持って、間に合わないと思い2階に上がった。そ の瞬間、振動がボーンときた。ここで死ぬと思った。
階段の上に水きたが、1m位でとまった。今だ、と思って逃げた。稗田駅へ逃げた。駅の他の人が「早く走れ!津波が来た!」第二波だった。その晩は泊まった。
会社のお金持ってたので、問屋の人に朝7:00お金を預けた。それから20kmトンネルを抜けて歩いて帰ってきた。家が崩壊した国道を歩いてきて、45号線の道路が崩落して歩けないので、線路の上を歩いた。ここに着いたのが午後2時~3時くらいだった。足の指がケロイドみたいになった。家族は4人です。
テレビで津波警報よくやっていて、2~3日前も。まさかこんな大きい津波が来るとは思わなかった。車は4台あるが1台だけ残った。家と職がなくなった。
地震だけならまだいいが、津波があったからメドは立たない。年寄りから前の地震のことは聞いていたが、それはまだ小さい津波だった。今度はこの体育館の高さの2倍の津波だったと思う。この小学校の10m位下まで水が来た。とてつもない津波だった。
町長が死んだからしょうがないんだけど、仮設住宅、住む空間がいつになるか情報が遅い。
となり町より遅い。違う生活環境、共同生活なので我慢はする。不満を言ったらバチがあたるよ。

・(店長の奥様)
母親は脚が悪いので途中まで車で上がった。助かりました。夫は駄目だと思った。逢えたときはよく助かったと思った。何も持たなかった。夜になると今でも怖いです。明日という日が来るのかと思い不安です。

・女性(70歳代)
 私は娘婿の息子を亡くした。今は娘と孫2人(4歳、中学1年)の4人暮らしです。
近くのガソリンスタンドで働いていた。社長がミスだった。社長が消防団で先に行くと逃げた。知り合いが「おめぇーの息子、まだ油のことやっていた」と言っていた。1週間後
にガソリンスタンドのところで見つかった。花巻で火葬した。
 私の主人はまだ見つかっていない。この小学校の下の方にいると思う。ここまで上がってきて、携帯電話を忘れたと言って家に戻ってそのまま。
波は水でなく泥、見たことないはじめてのこと。夜は外のテントで毛布1枚に3人。
 娘は働いていたので来なかった。2日目の夕方帰ってきた。そのときは喜んだ。息子は37歳だった。4歳の孫はお父さん亡くなったのがまだわからない。いつも一緒にお風呂入っていた。孫をどう育てていいか心配です。
 主人は78歳、悔しいけど仕方ない。中学の孫は6年間頑張ると言っている。自衛隊の人は今日も、この小学校の下で3人の遺体を見つけている。主人も見つかると思う。死体をアルバムで見せるが、見るものではない。目が飛び出したり、顔がよじれたひどい状態。手も足もなく、顔は真っ黒だったり。子供には見せれられない。ここに40年住んでいる。堤防のすぐ近くの家だった。孫おぶった時、脚は痛くなかったから不思議だ。これから頑張って孫を育てていきます。
以上

2011年4月19日グループD(岩手県上閉伊郡大槌町 安渡小学校 体育館)4名
・男性(70代)
5~10分で津波が来たので、年寄りはのまれこんでしまう。話にならない。一言で言えない。生きているのが不思議。家の裏が山、しっかり海を見た。津波の恐ろしさをしっかり見た。この辺は一軒も家がございません。それだけすごかった。息子、お母さん一緒に、山へ行った。家は将棋倒しだよ。仮設住宅が一番だよ。低いところは許可にならない。土地を見つけるのに金かかるし、交渉していて話はすすんでいると思うが。陸前高田市は仮設に入っているが、ここは遅れている。一日も早く仮設住宅に入りたい。一日も早く元の生活に戻りたいよ。夜ちょっとしたことで喧嘩したりになるし、早く仮設に行きたい。頑張ります。

・女性(70代上記奥様)
車もなにもないから、買い物もたいへん。バスもすぐに乗れるところだった。食べるのはけっこういただいているから。

・女性(70代)
流された鉄橋のところに住んでいた。セメントだけ建っている。「水が大事だなぁー」と

バケツに入れてたら、主人が「すぐ逃げろ」と言って、主人は玄関から、私は裏口から。

その主人はまだ見つかってない。私はお寺に上がったら、すぐに津波が来た。2階にいて大丈夫だと思っていたのか、船が家がどんどん流される。お盆の灯篭流しの感じ、家が燃えたまま流されている。パニックとおり越して、悲しい、辛いの感情でなくて、表現できない。
 主人は絶対に流されないと思っていたのに。あちこち捜したがまだ見つかってない。

子供は46歳で千葉県で独立しており、1回ここに来ました。頑固な父だったので子供たちは「お父さんが行方不明」と言っても、「仕方ない」というだけだが。親子だからいろいろあると思う。いくら待っても主人は出てこないと思う。お買いものの巾着だけで、何も持って出てない。何回も津波警報というのがあっても、逃げていないから。堤防も高くなったという安心感あったから。隣りの人に3mと言われたけど、私は和歌山出身だから想像つかない。竜巻はみたことがあるけど。主人は2階にいて、大丈夫と思ってたんだろう。
この小学校の下まで水がきていたからすごかったよ。
 悲しいという感情がないのが不思議だ。私の家の並びで3人が死んだ。私の息子は神戸震災で1週間ボランティアに行って、「水も困ってて大変だった」と言っていた。良いことをしたわねーと、私は言いました。主人の弟が病気で病院にいるので、千葉に行けない。

・(近くの女性)
9mの波が来たと思う。海の水がいったりきたりしてた。チリ地震津波の後に、堤防高くした。ここを超えたらたいへんだとは思ったが。今までも津波警報解除して戻ってきたから。あぁ駄目だなぁ、家はないと思った。地震のとき私は家にいなかった。居場所がないのが悲しい。

以上

2011年4月19日グループE(岩手県上閉伊郡大槌町 安渡小学校 体育館)3名
・男性(60代①)
逃げるのが早かった。電気消えた。大津波警報出たので、すぐに車で逃げた。財布も持たなかった。車で妻の方に行ったが、妻は会社の人と逃げた。海岸のそば、家の2階にいたが水が来たので、走って逃げた。2階が玄関、階段から水が上がってきた。こんなに早いとは思わなかった。1回水が引くと思ったので、ガラス片づけていたら、すぐ水が来た。道路に並んでいた車は全部流された。まさかと思った。水引いた後、入ってくる水がバーと来た。

・女性(60代)
私は仕事場が海に近かった。会社の人が車で、30秒早く、そのあと歩いて逃げた。
家の近くの海岸沿いの人は、堤防があるので安心して逃げなかった人が多い。
前の家のローンが残っている。建てて13年。親戚の方が亡くなりました。
逃げる途中水を見てる間もなかった。

・男性(60代②) 
騒ぐ間もなく、声を出す間もなく、水が上がってきた。最初きたあとすぐに本当の津波がきた。玄関出て山に逃げた。仮設住宅は建てるところがない。住む所決まれば頑張れるが。危なくとも海のそばがいい。津波めったに来ないから。離れたくない。
以上


2011年4月20日グループF(岩手県花巻市台温泉観光荘 釜石被災者)12名                                        
・佐々木男性(62)独身、87歳の母と2人暮らしです。地震のとき東京にいた。小さい頃チリ地震津波で、津波は知っている。3/11の地震で家は流された。母は肺炎で入院中。将来の釜石の力になりたいです。

・浜田男性(73)漁師。津波は次々と重なってきた感じ。第1波より2波3波がすごかった。入浴は息子のところに行って、隣りの家で世話になりました。入浴は7日目です。仮設住宅は2年なので、その後を考えないと。浜で3代育っている。漁業を続けたいが73歳なので、借金は苦しい。仮設住宅に入ってから考えたい。年金は国民年金だから。1000万くらいの金額はなかなか返せない。

・浜田奥様(67)家は全壊。漁業、ホタテ(帆立)の出荷を3/11行っていた。クルミをむいてたときに地震。テーブルをつかんだ。お父さん来てポットは倒れた。外へ出たが瓦落ちてきた。津波のバリバリという音がした。そのまま逃げた。着のみ着のままで助かった。遅れた人は駄目だった。家族はみな無事。親戚の人は亡くなった。津波は黒く感じた。バリバリという音、家を壊しながら。
高校生の男子で、じいちゃん、ばあちゃん助けようとしておぶっていたが、波が来てがれきに挟まれて肋骨が骨折した。着がえしないで毛布くるんで木を燃やして助けた。翌日病院に行った。じいちゃん、ばあちゃん流された。
次の日まで山にいた。がれきで歩けない。その日は食べないで過ごした。次の日は山を越えて親戚の家に行って、兄弟4家族、プロパンガス使えた。水は外から汲んできた。

・野村男性(50)すぐ避難して助かった。山を駆け登って助かった。県巻の窓が外れた。すぐ逃げない人がやられた。30分あったからすぐ近くの山に登った。1週間前に避難訓練。親戚で2人逃げ遅れて死んだ。物は持たないで逃げた。父親は昨年死んだ。40年前の家でした。津波は滝が落ちてくる感じ。学校がはじまってくるので、子供のいる人はここに来れない。また学校がはじまると避難所がなくなるから、またたいへんなことになる。

・山崎男性(72) 高台(たかだい)の昔の小学校があった下。漁師のほとんどの人が、あの津波がくるとは思ってなかった。堤防つくるとき、大学の先生が実験した。まさしくその通りになった。半分は人災です。昭和8年の昭和三陸大津波の経験があったので、高台に家を建てた。波は第2波の波がすごかった。
入浴は6日目、栗林町で。

・山崎奥様(71)仮設に2年入っても、その後が心配。70歳を過ぎているから、住む所をどうしようか心配です。この旅館は仮設ができるまでです。

・山崎女性(60)母は87歳です。海から100mのところ、土台が残っただけ。悲しいというより天災なので。妹と買い物に行って、45号線を走って14:00家に帰った。車を駐車場において、しばらくして地震。母を外へ出して、近くの5分のところの高台に登って、10分後くらいに岩手缶詰から波がきた。車、家が流れたきた。高齢の方の死体も見た。近くの3階の人が気絶。
顔見知りの人が犠牲。84歳の男性、位牌を取りに戻り亡くなった。私の家は壊滅だけど命は大丈夫でした。生かされたと思っている。宮古から釜石に早く戻れたので、頑張ろうと思っている。被災した場所を車で走っていた。1時間早く戻ってきたので助かった。高台は10mくらい。津波のスピードがすごい。海のそばなので、海からわぁーと来た感じ。ヘドロのような黒い感じ。缶詰工場から鉄砲水のように来た。その後じわじわと。土台だけしか残らない。高齢の方で頭の上まで水が来た。物につかまって助かった人、5~6人いた。避難所で聞いた。みんな70~80代。
情報がないので津波は釜石だけだと思った。2日目あたりに自衛隊が来た。3日目に神戸の医療団の人が来た。前回経験しているところは違うと思った。感激した。
その日避難所で食べなかった。食糧、トイレ、水の3班に分かれて、もらいに行った。食糧は集まった。たきぎで火を燃やした。翌日からスーパーに電話して流されたものを集めた。若い人中心で1日2食食べられるようになった。リーダーが大事だと思った。
入浴は5日目です。避難所出て親戚の家で。避難所の炊き出しですが、高齢者は外出できないので恩恵を受けられない。

・山崎 妹(57)今回は来ると思い、車で高台に逃げた。途中、車をぬうように逃げた。親戚2人、火葬できてよかった。町内会では家は壊滅、流された。

・沢口男性(52)土けむりで竜巻かと思った。電柱が倒れ駄目だと感じた。後ろを振り向けなかった。あとで被害わかったが声も涙も出ない。入浴は8日目。

・沢口奥様(52)津波はゴーという音と共に、竜巻だと思った。一瞬だった。水色でなく茶色ぽい。津波は映画のシーンみたいに、後ろから前から来た。
昔の中学校の体育館、1200人。食事はせんべい2枚、バナナ1本を2人で分けた。毛布1枚。新聞紙を体に巻いた。
避難所はふとん2畳くらいで狭く苦しかった。ここは畳の上で寝れるので嬉しい。畳がいい。ボランティアの人が体を揉んでくれた。「体が張ってますね。そんなに頑張らなくていいですよ」と言われホットした。気を張っていたので楽になった。

・岩崎女性(59)嬉石町に居た。ここまでは来ないだろうと思った。来る来ると言ってこれまで来なかったので、埼玉の娘から電話でテレビ見たと連絡あり、逃げた。後ろ見たら波がきて、車ごと流された。運よく流された家が壁になって、車の窓が開いて畳に乗り、母親ひっぱりだして、畳に乗って助かった。波の気配なかったが、瞬時に迫ってきた。津波警報が解除したら帰ろうと思い、着のみ着のまま出た。運が良かったと思う。入浴は5日目です。
母親89歳、親戚の家にいる。私は息子の所。長くなってくると迷惑ではないかと気を使ってしまいます。それで母親と一緒にここに来ました。はい、ここでは家族で個室を使用。これがとてもありがたいです。

・葛西女性(71)71歳の夫と二人で船を出して昆布をしている。2人暮らしです。お茶飲みを終えようとしたとき津波がきた。隣りの家はおばあさんがいる。私は車を運転できない。「津波来た逃げろ」と若い人の声。お父さんは軽トラック、私は-----。2人助かった。その人は命の恩人。次の日行ったらがれきの山。2階は残った。お父さんのかばん、がれきから出てきた。4/18(月)から台温泉の観光荘に来た。それまでは親戚に世話になっていた。親戚で家族流された人いる。
国道のそばのドライブインで避難、おにぎり1個だった。その後避難所で1日2食、おにぎり。世話してくれる人がいた。(涙声)

以上

第1回 東日本大震災 お話伺いのボランティアの募集 2011/5/21 [東日本活動案内]

土曜日のひととき、東日本大震災の被災者をお慰めするとともに、貴重なお話をお伺いに行く、傾聴ボランティアを募集します。
荷物は軽装で足元を固めて筆記道具があればよく、数名の人でバランスをとって組んで行います。
男女年齢の区別はなく、経験も必要はなく、初めてでもできます。
事前に下記に連絡を頂くか、当日直接に来られても結構です。
どうぞ、あなたの心を被災者に。




日時:2011年5月21日(土)

集合場所:仙台駅からJR仙石線に乗り換え22分 多賀城駅前

集合時間:午後12時15分にご集合下さい。
 下り電車:あおば通11:40・仙台11:41→多賀城12:03
 上り電車:東塩釜12:00→多賀城12:09
終了時間:午後6時に多賀城駅にて解散予定です。

訪問先 :避難所・仮設住宅
※活動は徒歩で行います。車での参加はなるべく避けてください。
(5/14現在、仙石線はあおば通~東塩釜間で臨時ダイヤで運行中です)

ご連絡は
電話078-734-6544、携帯090-8121-9709:東條健司(神戸市)
または
携帯090-2990-9601:遠藤誠(山形市)

(新聞社の方に。貴社に東北・仙台版があるようでしたら、是非このお知らせを掲載し、神戸の経験を東日本大震災に伝えるべく、よろしくお願いいたします。週末ボランティア、代表、神戸市須磨区飛松町2-3-18-505 東條健司)

第529回 阪神・淡路大震災 傾聴ボランティアの募集 2011/5/14 [神戸活動案内]

週末ボランティアは、阪神・淡路の被災者がこの度の東日本の地震を自らの体験と合わせてどのような思いを持っているかを直接聴く中で、その心を共有して行きたいと思います。

第529回 阪神・淡路大震災 傾聴ボランティアの募集

日時:2011年5月14日(土)午後1時~7時
(訪問だけは5時に終了いたします)

集合場所、時間:「神戸市勤労会館」三宮から徒歩5分
・午後1時に702号室にご集合下さい。

訪問先:神戸市中央区、HAT神戸・脇の浜住宅

ご連絡は電話078-734-6544、携帯090-8121-9709週末ボランティア代表:東條健司まで

第528回 神戸お話伺いメモ 2011/4/23 [2011年神戸お話伺いメモ]

・60代女性,一人暮らし。一部損壊のため公的支援は受けられず。子どもが成人した後夫と別れた。3年前まで病院に勤めていたが,待遇が悪く,精神的苦痛もあって辞めた。労働条件・待遇は年々悪化している。東日本大震災の被災者には,神戸では津波はなかったが被災した人は我々と同じと思う,としながらも,過剰な支援がかえって働く意欲を削ぐことになるのではとの厳しい見方も。

・80代女性,70代夫と夫婦2人暮らし。中央区で全壊。避難所暮らしはあまりせず,宮崎県営住宅を経て西区の仮設住宅で2年ほど過ごす。友人もでき,気が休まった頃にこの復興住宅へ。今は腰痛でままならないが,少し若い頃は,この階下で盆踊りの練習をして神戸まつりに参加していた。同じ仮設住宅にいた者同士でここに入居したかった。4月から家賃が徐々に上がる。ご主人は,訪問時風邪とのことだったが,普段は階下の花の世話を一人でしているとのこと。

・60代男性,夫婦2人暮らし。長田区で一部損壊。地震のとき,寝ていたところにグーという音がしてだんだん音が大きくなり,2~3分後に縦揺れがきた。背中に本棚が倒れてきて,奥さんに助けられた。芦屋で経営していた雑貨店が入っていたビルが全壊したが,住民票を置いていなかったため義捐金などは出ず。商品などを取り出して仮設店舗で営業した。行政は冷たかった。6年前に仕事を辞めた。人間が信じられなくなり,ストレスから網膜剥離になり,一時は目が見えなくなった。東日本大震災の被災者には,頑張ってとはいえない,人の気持ちと絆を考えて,相手のことを大切にしてほしいと。

・60代男性,一人暮らし。長田区で全壊。近くの小学校がいっぱいだったので須磨区の体育館に避難し,六甲アイランドの仮設住宅へ。震災のストレスで脳梗塞に。7回倒れたが,意識がなくなり全身が動かなくなることも2回あった。少しろれつが回らないので喋りにくい。今は病院が通いの日々。タバコと酒はやめていて,そのおかげで少し不自由ながら生活できている。右手が少し不自由で字が書きにくい。震災後はトレーラーに乗って全国を走っていた。後にタクシー運転手を10年。当時は知らなかったが,この復興住宅に同僚が住んでいて,まだ仕事を続けているようだ。東日本大震災の被災者には,頑張れとよく言うがどうしようもない,頑張れと言えない,と。

・60代男性,夫婦2人暮らし。長田区で全壊。全壊した文化住宅からは自力で脱出した。近所の人を数人助けたが,新聞配達中の人が倒れた家の下敷きになって逃げられず,そのまま焼死したのが忘れられない。娘の知り合いも亡くなった。近くの小学校に避難,現在介護職に就いている娘とともに避難者を世話するボランティアをしていた。ポートアイランドの仮設住宅を経てこの復興住宅へ。近所つきあいはほとんどない。この住宅で清掃活動をしていたら「お金をもらっているのでは?」と言われたので辞めた。現在は夫婦で大学の清掃の仕事に行っている。安くていいと,昼食を学食で食べることも。お金に困る,ため息ばかりつく,国民年金だけでは食べていけない。東日本大震災の時は,震度2で,蛍光灯のヒモが揺れたぐらいだが,阪神淡路大震災を思いだしたようだ。

・70代?女性。「ちょっとしんどいので…」と,インターホンで簡単に安否・近況確認。

・「何も話したく有りません。体も健康ではありません。ごくろう様です。」と自ら支援シートに記入。

第527回 神戸お話伺いメモ 2011/4/9 [2011年神戸お話伺いメモ]

60代女性,中央区で全壊。親戚が住む東灘区の市営住宅までほとんど1日歩いて向かったが,そこも住めず,その前にテントを張って5人で肩寄せ合って一晩中座っていた。1年後入居した仮設住宅は,冬は大変寒く,夏は格別な暑さの上に虫だらけ。ここで初めて支援物資をもらう。400世帯ほどあったが,自治会長さんがよくできた人だった。この復興住宅に入居12年目。自治会の仕事をしていて,話し好きで,コミュニケーションには困らない。食べていけるだけの年金はあるが,収入の1/3ほどまで家賃が上がることが不安で「家賃を上げないで」と何度も。被災時,水がいちばん不自由だったので,自分がもう少し若かったら,汲みに行けず家にいる人に届けてあげたい。東日本大震災の被災者に「がんばってくださいよ」と。

70代男性,一人暮らし。灘区で全壊。ポートアイランドの仮設住宅で4年過ごした後この復興住宅に入居して12年目。仮設住宅でもコミュニケーションが足りないと感じていたが,この復興住宅に来てから4人もの孤独死を見た。3度も隣近所と引き離されるなど,市の施策の冷たさを感じるが,初めてのことだったので仕方なかったのかも。今この復興住宅にもかなりの空室があるので,東日本大震災の被災者を受け入れてあげてもいいと思いながらも,神戸の時より待遇がいいのではとも。東日本大震災の被災者にはがんばれとしか言えないのだが,原発は人災ですよね…。

女性,一人暮らし。中央区で被災。足腰が痛いとのことで,玄関に出てくるのも時間がかかり立っているのも辛そうだったが,話すうちに表情も明るくなっていった。近所付き合いもうまくいかず,睡眠不足や高血圧で倒れたり,脚を捻挫したりして,食欲もなく,必要な通院も十分できず,最寄りのスーパーで買い物するのがやっと。身の回りのこともできなくなってきたが,他人をうちに入れたり,手伝ってもらったりするのに抵抗感が強い様子。初対面のボランティアとしては,傾聴を通じて,信頼関係を築き,抵抗感をやわらげてもらえれば,訪問した甲斐があろう。

70代女性,80代夫と2人暮らし。中央区で全壊。近くの高校に避難,仮設住宅に4年いた後この復興住宅へ。訪問時ご主人の散髪をしていた。足腰がわるく,右膝は手術の予定。2カ所の病院に通っている。

80代女性,一人暮らし。灘区で全壊。若い頃は見習い看護婦をしていて,戦中~戦後は満州に。戦後現地で結婚しともに帰国した夫は,この復興住宅で10年前に亡くなった。現在特に身体に悪いところはなく,ほぼ毎日大安亭にお茶を飲みに通っている。時代の流れに逆らわず生活しているとのこと。

80代女性,夫婦2人暮らし。中央区で全壊。島根県に5年ほどいた後,3~5回の抽選で当たってこの復興住宅へ。胃を全摘出していて少量のそうめんしか食べられない。外出も困難なのに地域の役員を12年続けてきた。玄関先のつぼみを膨らませた鉢植えの話題でなごむ。

40代男性。中央区で全壊。奥さん,不妊治療のおかげでようやっと授かった男女の双子と暮らす。訪問時は,この復興住宅で生まれ育っている子どもの友達が大勢遊びに来ていて賑やかな様子。運送業で夜の仕事だが,休みの前ということでお話し伺いに応じてくださった。被災後被害がなかった垂水区の実家に半年身を寄せてから仮設住宅に移り,この復興住宅へ。今特に困っていることはない。震災時に撮影していたビデオをいとこに貸したらなくされてしまった。子どもに阪神淡路大震災のことを話しても実感がわかないようだ。

(週末ボランティアでは、4月18日~20日の間、仙台から花巻の東日本大震災の被災地をまわり、この震災の被災者との接触のなかで、その活動可能性を見て参ります。)

第526回 神戸お話伺いメモ 2011/3/26 [2011年神戸お話伺いメモ]

60代、男性、妻と二人暮らし。中央区で被災。全壊。震災の時は山の方へと逃げた。視覚障害、ここに13年住んでいるが、知り合いが出来ないので詰らないという。ここでは“インターホン会話”だけだ。福祉に関するお金を貰えても安心できない。年金が減らされて生活が苦しい。仮設はポーアイ。仮設住宅での生活は良いものではない。なぜなら周りに仲間が居ないから。周りの人はどっから来ている人なのか分らない。挨拶もない。行政からの見回りもない。昔は田んぼの手伝いを良くしていたのだが。子供は3人、すでに結婚している。妻は今仕事。避難生活で欲しかったものは?着るもの、お金、食料(缶詰)との事。東海地震はもうすぐ来る。神戸は復興まで12, 3年かかった。東北は20年以上かかるだろう。東日本大震災は同じ震災を経験した者として胸が苦しい。頑張って下さいと神戸からエールをおくる。段々と話すうちに元気が出てきて、終わりは私たちと固い握手を交わした。

80代、女性、夫と二人暮らし。中央区で被災。半壊。避難所は一杯、食料の配給は来なかつた。お握りばっかり食べていた。水、電気、ガスはストップ。近くに井戸があってトイレはそれを使った。近くに蛇口5ヶ出来たのでバケツで汲みにいった。1ヶ月で電気復旧、2カ月で水・ガス復旧。ガスが通じてもお風呂が壊れていたので銭湯にいった。この震災で退職した。4月に家賃が上がる。あと2回上がり、最終的に3万位になる。
神戸で、空襲・水害・震災を全部経験した。その中で空襲が一番怖く辛かった。今回の東北の状況を見て、神戸での震災は「まだましだ」と感じる。17年前のあの年だから乗り切れた。津波は神戸の水害を思い出す。被災者どうしで励ましあおう。東北の復活を願ってやみません、とのメッセイジを頂いた。

第525回 神戸お話伺いメモ 2011/3/12 [2011年神戸お話伺いメモ]

80代男性,一人暮らし。中央区で全壊。ポートアイランドの仮設住宅で3年間過ごしたあと,この復興住宅へ。交通事故で妻を亡くしてから50年間一人暮らしなので慣れている。この4月からまた家賃が上がるので,今後が少し心配。脚に痛みがあり風呂に入るのが大変。交通費が面倒なものの,病院へは一人で行けるので,今のところはまだ幸せな方。

80代女性。須磨区で全焼。自分は外へ避難できて無事だったが,地震後間もなく家はきれいに焼けてしまった。

90代男性,一人暮らし。東灘区で全壊。ポートアイランドの仮設住宅を経てこの復興住宅へ。家賃が上がっていくのが困る。中国南部~台湾に兵隊に行ったこともあり,戦後神戸に来て若い頃から長く配管工をしていた。病気は特にしたことがない。脚がやや不自由で,時間をかけて出てこられ,棒に掴まりながら玄関口でお話し伺いに応じてくださった。何度も危ない目に遭っているが,外出には自転車をよく使う。8万円もした補聴器のボリュームを上げて使っていて,時々ビーッという雑音が。部屋はかなり綺麗にしている様子。普段話し相手がほとんどなく「早く死にたい」と思うこともあるが,時折近所の人が話しに来てくれる。

70代女性,50代男性。インターホン越しに女性の声がしてからしばらくして男性がドアを開け「母は今トイレに…」とのことだったが,安否確認程度のお話を伺う。
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